それは本当に失敗なのか?

年に何回か人前で話すことがある。頼まれての場合もあるし、自発的な時もある。内容はいたってシンプルで、私の経営に関する失敗話である。当の本人は失敗と思っていないことがポイントで聞いている方からは賛否両論である。

たとえ話としてよく子供時代の話をする。子供の成長は人それぞれスピードも違うし、呑み込みのいい子悪い子千差万別である。中学時代、私はバレーボール部に所属していた。運動能力はいたって普通、どちらかと言えば呑み込みの悪い方だったかもしれない。背丈も真ん中、しいて言えば目立ちたがり屋であったため人前で変わったことをしたり注目を集めたりすることを好んでいた。初めてボールに触ったときは先輩のようにジャンプしてスパイクしたりトスしたり、レシーブしたりすることはあまり想像できなかった。1年生の時は上手くなりたいと思い必死で練習をした、と言うよりやらされた感じだった。二人一組お互いにパス練習をして少し変な場所にいくと怒られる、たたかれる、殴られるであった。私の頭の中は、反骨心と先生に対する怒りと恐怖で充満していた。しかし、ある時を境に100回失敗したらパスが上手くなる、100回レシーブをはじいたら上手に相手に返る、100回スパイクを失敗したら上手く決めることができる、目立つと考えた。当然失敗の方が多いのであっという間に100回に到達していた。2年生になるころには先輩に無理やりマンツーマンさせられ特訓を受けた。その時も先輩にひどく怒られていたが、そのうち100回の失敗に到達するまですごく時間がかかるようになっていた。逆に数を忘れてしまうほど失敗をしなくなっていたのだ。今度は先輩の失敗をフォローできない数を数えるようになった。そのうち先輩もむきになり、何とか私に失敗させようとした感じさえしていた。

そう、何が言いたいかと言うとその時、上手にパスできなかった事、レシーブできなかった事、スパイクできなかった事は本当に失敗なのかということ。100回エラーしないと上手にならないというルールがあるなら、それは早く100回を迎えた方がいいのだ。先生はエラーを称える、褒めるべきである。100回のエラーは失敗ではなく、絶対通過しなくてはいけない通過点なのだ。2年生の途中でそう悟った私はミスすることで怒る先生にとてつもない不信感と嫌悪感を感じていた。

今、私の子供は3歳になり間もなく4歳になるが未だ上手くしゃべれない、おむつのままだ。人の話も少しずつ理解できるようになってきたが他の子に比べかなり遅れている。沢山失敗もしている。私は怒ることはしない、駄目なことは怒るべきという躾も必要なのかもしれない。でも上手くいかないことや沢山の失敗をしないと成長はないのだ。大きなくくりで言えば仕事でも同じことだ。失敗をすれば弁償金が発生したり築いた地位も危うくなる。怖がってびくびくしながら何とか失敗しないようにという思いで仕事をする。それ、本当に失敗なの?商売の失敗、投資の失敗、離婚したこと、全部通過点で必要な事なのではないか?一度やった過ちはちゃんと検証して次に生かせればいい。少し高い勉強代だったと思えばいい。繰り返しやってしまったら、どうやって数を減らすかを考えればいい。論理的に考えればいい。検証するすべを勉強すればいい。

少し飛躍したそれた話だが、私は世界最高峰の学問は統計学だと思っている。なぜなら過去のことをすべて次に生かせるからだ。コロナでもそうであったがすべてエビデンスがエビデンスが・・と騒ぐ。医学の世界でも臨床実験から進化している。すべて統計が絡んでくる。製造業においても株の投資であっても過去のデータを拾って進むのである。さいころを振って1が出る確率は6分の1である。2も3も4も同じだ。2回連チャンで1を出す確率は一気に下がるのである。統計学と失敗の話は一見関係ないようだが、ミスの統計、成功の統計、論理的な思考から言えば大いに関係しているのである。

車にのると毎朝のように人身事故のよる電車の遅れの情報が流れている。自ら命を絶つ選択肢もあるのかもしれない。それは本人が選ぶべき選択。しかし、学校での失敗、社会での失敗それは失敗ではなく通過点であるということを子供の時から教えるべきである。いくら駅のホームにガードを作っても人身事故が減らないのは根本的に考えが違うのではないかと思う。

科学的にそれは本当に失敗なのか?道徳的にそれは失敗なのか?教育的にそれは失敗なのか?

政治家さんたちよ、金の計算と選挙のことばかり考えないで本気でこれを証明してほしい。

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