昌利紙工業株式会社での貼り込みの請負は続いていたが、身内も手伝ってくれいたので時間も少しできるようになった。そしてまた叔父の登場だ。お前の持っている仕事を昌利紙工業株式会社に回してほしい。そして社員として進行や管理を見て欲しいとのことだった。もちろん断る理由もないが当時の昌利紙工業株式会社は100名体制。営業も4名、管理職や大手印刷会社からきた人間も多く全く居場所などない状態であった。がしかし自分が持っているお客さまからもまた仕事が少しづつ戻ってきており毎月2000万近くは売上貢献していたのだ。これが救いで周りの目もなんとなくの信頼感や下手にまわるものもいた。決して心地よくはなかったが、工場の隅から事務所の端のデスクまで移動することができた。工場はさすがに歴史もありお客様が毎日出入りするほど活気づいていた。しかし、工場の生産体制や品質管理は相当ひどく、評判が決して良くはなかったのだ。自分のやること、それは自分の失敗を生かして、この工場に失敗はさせないことであった。従業員を怒鳴る、管理者がイライラして何かにあたることをまずやめさせた。やり方が気に入らないと退社していくものも多かった。5年後には約半分まで従業員が減った。営業職、管理職は1名も残らなかった。次第には叔父の弟、つまりこれも私の叔父であるがその人間までも退いた。計算はしていないがほぼ予定通りのことだった。さて、ここからは自分のカラーを作り上げる作業だ。2015年に役員にしてもらい事業引継ぎの準備を始める。事業承継の話をすすめるがどうもしっくり進まない。それには過去の破産が関係していた。金融機関からは厳しい意見もだされた。つまりここでは代表権をもった社長になれないこと、個人補償はできないという意味であった。自分に肩書は必要ないがそこまでも信用できないならと方法を考えた。