この印刷製本の仕事に入ったきっかけは、叔父の誘いであるが、実際にハチャメチャなでたらめな学生時代を経験した自分にこのような地味であまりコスパの良くない仕事が果たしてできるのであろうか?自分が一番疑問に思っていた。しかしいい時代がそんなに長く続くわけでもなく、どんな世界も必ず陰りがあると信じていた自分にとってそれほどの決心でもなかった気がする。どこかでどのみち工場経営なんてアホな二代目や就職できなかった人間の集まりとコケおろしていたのも事実である。大手印刷会社に行ってもルールなどでがんじがらめになっている融通の利かないただのプライドの固まりと思っていた。このころからであろうか?印刷会社の看板背負ってないと仕事ができない、個人パワーで仕事を回しきる人間が少ないと感じていたのである。
私の自分の生きる道はここしかないと思い、現場から営業から管理から経営からすべてを自分でやってみることにした。というかやらないと気が済まない性分だった。26歳から35歳までの平均睡眠時間はおそらく1日3時間程度である。寝ずに働き、寝ずに接待もした。結婚もした。ほぼ一緒に生活することなく離婚もした。好きか嫌いか、合うか合わないかもわからず離婚した。子供がいなった分、そして資産がなかった分、紙切れ一枚で済んだのだ。悲しむこともなく、生活スタイルに困ることもなく一人淡々と仕事に没頭していた。途中叔父からの会社からも独立をして若い社長と当時の業界からは珍しがられた。このまま突き進むことを決意し36歳の時に規模を広げた。ちょうどリーマンショックが日本にも波及してきたころだった。専門的に言うと、無線綴じライン2台、他付帯設備保有、社員30名、外部の製本工場買取り無線綴じ3台、トライオート3台、専属工場含めると総勢40名年商4億円近い数字まではあった。がしかし、この1年後に奈落の地に落とされるのである。協力会社が次々倒産廃業し、買い取った工場まで閉鎖に追い込まれた。それまでの支払い決済、手形を振っていたため資金ショートし数千前くらいの決済が焦げ付いた。周りの協力もあり幸い不渡りは出さずに済んだが個人的な資金集めに翻弄したのだ。古い友人にも声をかけ、大手広告代理店に駐在の席を設けてもらい印刷会社を通さない直請けにシフトしていった。ここまでは何とかどうにかやってきたが金融システムにさほど明るくないためか、経営のセンスの問題なのかわからないが、2回目の資金ショートに追い込まれた。計画性のない性格のため、会社の1年後のイメージだの付くわけもなく、行き当たりばったりで5年ほど前まで親しかった先輩印刷会社の社長に相談を持ち掛けた。製本に力を入れたい会社であったため、話は早かった。即座に手形決済をしてもらい、工場をその印刷会社に移したのだ。当時いた従業員は半年後に転籍をし会社自体でなく、事業そのものを売却した。