自己紹介

自分のことをさらけ出すのはいかがなものかと思いますが、少しは生い立ちなどに触れながら自分のことを紹介しようと考えた。今の自分があるのは過去の自分や環境があったためと思うからだ。

さて、印刷製本に携わりちょうど30年目を迎える。大学を浪人留年しながら卒業しているので25歳で卒業、就職となった。当時はバブル崩壊後であったたため就職難ではあったが、知り合いなどからの紹介でいくつかの候補会社があり、少しは選択できたのかなと思う。ちょうど就職活動中に紹介されていた山一證券の破綻があり、まず一つの道が途絶えた。そしてイギリスの会社コーンズアンドリミテッドという車のランボルギーニを扱う会社に面談に行った。ただの好きな事に携わりたいと言う理由からだ。下調べもしてこなかったので、まさか面接官がイギリス人ですべて英語で質問されるなど全く予想もしていなかったため敢え無く退散することに。次の紹介先の十条製紙では面接日を間違えるというお粗末な結果に。まあ就職活動なんてこんなものかと思い、当時学生企業でそこそこ稼げていた自分は就職や就社ではなく自分で会社を立ち上げる準備をしていた。会社の社長になるためにはということで、まずは簿記と社会保険のことを独学でやってみた。試験を受けることもあったが資格が目的ではなかったため合格通知などもその場で破棄した記憶がある。そんな時に叔父から声がかかり、製本の仕事をやってみないかと声がかかり、社長になる条件付きで入社、叔父の強い希望もあり、製本機械メーカーに1年間丁稚奉公に出たのである。今でもその会社とは親しくしており、当時面倒をみてもらった会長や社長は他界したが関係だけは保っている。機械的な事、電気的な事、営業的な事、地味ではあるが社会人としての基本はそこで身についたかもしれない。

時を遡ること30、数年前、中学時代の話を少ししよう。当時私立中学を目指していたお受験組であったが親戚の影響からかどうしても行きたい私立早稲田中学と城北中学に蹴られ人生初めての挫折を味わうのである。小5、小6時代のすべてを犠牲にしてきた自分にとってショッキングな出来事であり、想定外の結果であった。受験当日は大雪で体は絶不調、熱を出してしまい本調子でなかったのかしれない。ただ、言い訳に過ぎず仮に本調子であっても合格したかはわからないし多分落ちていたであろう。その後は地元の中学に進み、クラブ活動1本で3年間を過ごしてきた。最初は近所の先輩のすすめでハンドボール、その年の夏には顧問からスカウトされバレーボール部。バレーボール部は強豪校であり、県大会優勝と関東大会出場でまあまあの成績をおさめた。

ただし、この時期のことは思い出したくもないくらいの強烈なスポコンクラブで、毎日夜遅くまで練習、顔は顧問から殴られて血まみれな状態であった。時代なのであろうか?親も文句は言うものの嫌なら辞めなさいというだけであり、最終的にズルズルと続けたのである。同学年には先頭を切るものもおらず、自分がキャプテンに任命された。これが残り2年の悪夢の始まりであった。キャプテンは昼休みに顧問と夕方の練習内容の確認、ひどいときには職員室の机の片づけをやらされるのである。我慢は限界を超えていたが意味もない責任感でどうにかこうにかこの時間を過ごしたのである。3年の夏休みが終わるといよいよ引退となり受験モードとなるがこのクラブではキャプテンは週一はクラブで後輩指導をする伝統があった。中学受験のリベンジをしなくてはならない自分にとっては面倒な伝統であった。結果、高校受験の本格的な勉強は11月くらいであった。ここからは一心不乱で勉強に励み部屋に缶詰め状態で勉強していた。

忘れもしない2月1日埼玉県の私立受験が始まった。2月1日は滑り止めの城西川越高校、5日は城北埼玉である。その年は珍しく埼玉でも大雪が続き、受験日は川越市の雪景色を見ながらの挑戦であった。結果8日には両校合格し、本チャンの18日城北高校に備えた。それまでの間本来なら最後の追い込みをかけるが自分の悪い癖で受かっている学校があったための安心感か学校へも行かず麻雀に明け暮れた。そして受験日当日も絶好調の体調で挑み完全合格を確信していた。帰り道は東武東上線の上板橋駅からの通学路の確認をしてきたほどだ。

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