ここまでくるとなんとなく会社をすんなり整理したように感じるかもしれないが、事業売却と言っても当時の自分にはあまり知識もなく単純に機械と従業員とノウハウを渡しただけで、そこに関わる経費関係がなくなっただけで金融機関の返済と個人の借入はそのまま残った。契約もなかったため話し合いで自分と身内だけが身を引きその印刷会社から退散した。といかににも喧嘩別れに思われるがちゃんとした話し合いをして円満に引き下がることができた。当時の苦しみから逃れられたことに関してはその印刷会社社長に今でも感謝している。退散して機械も従業員もなくした私は会社のために営業に専念することにした。お客様には事情を話し、もらえる仕事は自分で外注手配し何とか回していった。ただ困ったのは自分の拠点がないことだった。自宅という選択もあったが、印刷会社の発注形態からしてマンションの一室を事務所とした会社に仕事はふれないだろうという予測のもと、紙関係の工場を間借りし点々としていた。どこへ行っても雑用的なことも頼まれることが多く、自分の持っている売り上げを欲しいというのが見え見えで嫌気もさしていた。そんなころ、もとさやの叔父から声がかかり、カレンダーと抜き関係の責任者がいないということでそこで1年を過ごすこととなった。時は2011年3月ちょうど震災があった日は工場であくせく働きながら4月から入社する面談を行っていた。この時期に就職が決まっていない学生とは、やはりどこか問題ありの生徒ばかり・・どうなんだろう・・。とそんな思いの最中に震災は起きた。工場建物は古く3階建てだったため窓ガラスは割れ、アンカー打ちしていない機械は壁に激突し大破した。正直、自分の会社でなくてよかったとその時は感じていた。震災から1か月が過ぎたあと、叔父が突然、ここでなく、昌利紙工業株式会社、もとさやの近くの工場で貼り込みを請け負ってくれと話してきた。貼り込みの経験は製本の中でも一番長く得意分野であったので即座にokしたのだが如何せん機械が古すぎて使い物にならない。これでは商売にならないので中古機の購入を提案した。のんでくれたものの時間が2か月かかるとのことだったためまたもやプラプラすることに。自分の営業を継続し、時間待ちという状態だった。がおそらく、今思えばこの時間が私を奈落の底へ突き落す引き金となったのかもしれない。大手印刷会社からの加工部門からも同時に声がかかり、茨城県までその会社の貼り込みを少し手伝っていた。その間約1か月、その間に自分の持っていた仕事がどんどん手から離れていった。売り上げは激減し、全くお金が回らない状態となった。何を聞きつけてか金融機関からの返済催促が加速し、これが貸し剝がしというものかと直面したのである。